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「他人に興味がない人、利己的な人」への怒りを手放すには?

おかしな相談室

「私の友人なのですが、他人に全く興味がない上に、とにかく自分勝手な人がいます。

連絡しても無視するくせに、私のことを必要な時になると連絡してきたり、人には全く興味がなく、私のやることには無反応なのに、自分がやることには興味を持って欲しいと言ってきたり。

これまで散々気持ちを裏切られてきたので、もう距離を置こうと考えています。ただ、これまでの怒りが込み上げてきて辛いです。どうやったら、この気持ちを手放すことができますか?また、他人に全く興味がないのは何故なのでしょうか?」

おかしな相談室について

そうですね。人に興味がないということまでなら許せても、「あなたに興味はないけど、私には興味を持ってね」というのは、ちょっと違う気がしますね。

どうやったら、怒りを手放せるか?

ということですが、この場合の怒りは、当然の感情だと思うんですね。

怒って当たり前だと思うんです。

そして、これまでの怒りというのは、これまでに心に受けた傷でもあると思います。そんな時は、怒っていい時です。

怒りというのは、不思議なもので、抑え込もうとすると逆に大きくなったりするんですね。

反対に、怒って当たり前だと、思う存分、怒っていいんだと思って、怒るだけ怒ってみると、怒りという感情は満足してくれるのか、その後に薄れていったりします。

もっとも、怒るだけ怒るといっても、例えば、相手をパンチするとか・・そういうことをすれば自分の首を絞めることになるわけですから、もっと違う形で・・

例えば、人のいないところで大声で思ったことを言ってみたり、思ったことを紙に書いたり・・色々な方法があると思いますが、何かしらの形でその怒りを表現して、自分の中から出してみると・・怒りの感情は少しづつ薄れてゆきます。

大きな怒りが湧いてきた時は、そんな風にして抑圧するのではなくて、自分に怒ってもいいと許可を出して、十分に怒ることでその怒りを結果的に手放す・・という方法もあります。

そんな形で自分に対して思う存分怒ることを許してみると、気持ちは楽になれるかも知れません。

ただ、例えば、冒頭の方のように何度も気持ちを裏切られたような場合は、根強い怒りが心の奥に残っている場合があって、それが思い出し怒りのような形で何度も湧き上がってくることもあるかも知れません。

そんな時は、少し冷静になった上で、どうやったら、その心の奥にある怒りを手放せるか?ということについて考えてみてもいいかも知れません。

ここからは少し、そんなことについて考えてみたいと思います。

目次

他人に全く興味がなく、自分勝手なのは何故?

人は、自分に興味や関心を持ってもらいたいと思っているものだと思います。

そういう根本的な欲求が人にはあって、だから、人に興味を持とうとする人は人気のある人、好かれる人でもあると思います。

そういう人は結果的に、人から興味を持ってもらえたりします。

「私に興味を持ってくれたこの人は、どんな人だろう?」

と気になるからです。

「愛の反対は憎しみではなく、無関心」

これはマザー・テレサの言葉(マザー・テレサの心が温まる名言集<人生、生き方、愛の言葉>)ですが、好きの反対も嫌いではなくて「無関心」なのかも知れません。

だから、自分に近い関係の人に興味を持ってもらえないというのは、嫌われるよりも辛いことで、それに対して、怒りが湧いてくるのは当然のことだと思うんですね。

でも、例えば、冒頭のお話のように、相手は自分の友達なのに、興味がなかったり、自分勝手に振る舞うのは何故?と、やっぱり気になりますよね。

もっとも、人はもともと程度の差はあっても、どこか自己中心的なところがあるもので、自分のことには興味があるけど、他人のことにはそれほど興味を持たないところもあるように思います。

それは恐らく、生き残ってゆくために備わった本能のようなものでもあるのかも知れません。

大昔、例えば、生きてゆくことそのものが困難だった時代は、まず先に自分の利益を考えないと生きていけなかったのかも知れない。自分ではなく、他人のことばかりに気持ちを向けていたのでは、生き残ってゆくことはできなかったかも知れないわけです。

ただ、そうは言っても、その度合いがあまりにも強すぎて、人のことを全く考えないような場合は自分勝手だと、利己的な人だと言われてしまうかも知れません。

でも、何でそんなに自分勝手なのか、何でそんなに自分のことばかりで他人に興味も関心も示さないのか?

・・ということですが、これは色々な原因があるのかも知れません。

持って生まれた性格なのかも知れないし、何かしらの病気や障害が原因になっていることもあれば、育った環境に何らかの原因がある場合もあるかも知れません。

ただ、1つ言えるのは、そういう人が変わることは殆どないということです。

相手が変わることを期待した途端、それが怒りの原因になったりします。

期待を裏切られることが、怒りになるためです

また、相手が間違っていると思うと、それもまた怒りの原因となって、自分を苦しめます。

もっとも、そんな風に限度を超えて自分勝手に振る舞うのは少し違うと思うんですね。

ただ、それを正しいとか間違っているという視点で見ようとすると、それが怒りの原因になります

間違っていると感じると、それを正したくなるから、それをわからせてやりたいという思いが湧いてくるためです。

ただ、人は人に言われて変わるのが大嫌いなので、わかってくれることは殆どなくて・・そこで期待が裏切られて、それが怒りになります。

するとまた、間違っている、わからせてやりたいという思いが生まれる・・・という悪循環になったりする。

だから、正しい、間違っている・・で相手を判断しようとすると、相手や相手との間にあった何かに対して執着してしまいやすくなります。

そうではなくて、相手はもうそんな風にプログラミングされているんだと思ってみると、期待や相手が間違っているとう思いも手放せたりするかも知れません。

プログラミングされている、つまり、もう変更できないのだと思うことは、イコール、相手を諦めるということで、相手を諦めると、期待も間違っているという思いも同時に手放せます。

すると、思い出し怒りのようなものも少なくなってゆくのではないかなと思います。

納得のいく答えを探す時に気を付けたいこと

「何故、人に興味を持たないのか?」という風に考えてしまうのは、納得のいく答えが欲しいから・・ということもあると思うんですね。

納得のいく答えを得て、怒りを手放すため・・です。

もしどうしても仕方のない理由がそこにあるのであれば、自分を無視されたことへの怒りも手放せるかも知れないわけです。

だから、納得のいく答えを探してみることはいいことかも知れません。

ただ、その答えが見つからないような場合は、答えを探そうとすればするほど、相手に対する執着も強くなってしまって、かえって自分を苦しめる・・ということがよくあります。

遠い昔、お釈迦様は執着を手放せば楽になれると教えてくださったわけですが、相手に対して「何故~なのか?」と思うことは、実は相手に執着しているのと同じことなのかも知れません。

魂のレベルの話

あるスピリチュアルの専門家の方から、こんな話をお聞きしたことがあります。

少し僕なりに解釈を加えてご紹介したいと思います。(ただし、これは夢物語だと思って聞いてください)

スピリチュアルの専門家の中には、人は何万回と生まれ変わる・・と話す人が大勢います。

何故、生まれ変わるかというと、自分という存在、もしくは自分の魂を磨いて、成長するためだそうです。

だから、生まれ変わりの回数が多い人は、それだけ成熟した魂を持った人です。

一方で、まだ生まれ変わりの回数が少ない人は、まだ魂を磨き始めたばかりで、その魂は今の段階ではまだまだ未熟です。

人として初めて生まれたばかりの魂ですが、自分のことにしか興味がなく、他人のことには全く関心を持てません。自分が痛いことはわかっても、人の痛みはわからないし、知ることもありません。

ただ、生まれ変わりを重ねていって、魂が磨かれてゆくと、少しづつ自分以外の人のことにも目を向けられるようになってゆき、思いやりを持てるようになったり、自分が良ければそれでいい・・ではなくて、相手もいいように・・という風に考えられるようになったりします。

この話がもし本当だとしたら・・人のことを考えられる人は、生まれ変わりの回数が多い人なのかも知れません。

一方、人のことを全く考えられない利己的な人は、まだ、魂を磨き始めたばかりの段階なのかも。そういう魂もいずれは成長してゆくわけですが、今の段階(現世)では、まだ一生懸命磨いている最中なのかも。

もし、利己的な人に振り回されて、苦しめられている自分がいるとします。

そんな自分は今、どの段階にいるのか?

ということですが、それは例えば、限度を超えて自分勝手な人に出会って、苦しんで、そして、成長する・・という魂の修行をしている段階なのかも知れませんし、もしくは、もっと別の段階なのかも知れません。

だけど、自分を苦しめる人が現れてきたら、それは自分が成長するためにやってきたテストだと思ってみるのも1つの考え方かも知れませんね。

「自分の周りは自分勝手で人の気持ちを考えてくれない人ばっかり」と思ったら

「自分の周りは、自分勝手で人の気持ちを考えようとしない人ばかり」・・例えば、そんな風に思ったら、それはちょっとしたサインかも知れません。

それはどんなサインかと言ったら、「自分の気持ちを大事にしていないんじゃないの?」というサイン、もしくは、これまで自分の気持ちを大事にしてこなかったというサインです。

「自分が自分に接するように、人は自分に接してくる。」

ある方の言葉ですが、どういうことかというと、自分の気持ちを大事にしていないと、自分の気持ちを大事にしない人が自分の周りに集まってきます。

自分のことを犠牲にしていると、相手を犠牲にすることを何とも思わない人が集まってきます。

自分の気持ちを無視する人のことを嫌だなと思いながら、その自分の気持ちを大事にせず、例えば、「自分は友達が少ないから」とか「楽しいこともあるから」という理由で、自分を犠牲にしながら付き合い続けると、「私はこんなにしてあげているのに」という気持ちが湧いてきます。

「自分は我慢してやってあげているのに」という気持ちがどうしても湧いてきて、相手に何かを返してくれることを期待してしまったりする。

それは自分が自分の気持ちを犠牲にしているためです。

自分を犠牲にしてやっていると、何かその分のお返しを求めたくなる瞬間が来ます。

その時に相手が本当に許せなくなったりする。

だから、自分や自分の気持ちを大事にしないといけないのだと思います。

だけど、自分の気持ちを大事にすることで自分から離れてゆく人もいるかも知れません。都合よく自分を扱おうとした人は、都合よく扱えなくなると自分から去ってゆきます。

だから、自分を大事にすることで、一時孤独になることもあるかも知れません。

だけど、不思議なもので、一つの関係の終わりは、新しい関係の始まりにもなったりします。

ぽっかり空いたところに、何かが入ってくるスペースができるためです。

もし、自分の周りは、自分勝手で相手の気持ちを考えようとしない人ばっかり・・と思った時は、自分は自分の気持ちを考えようとしているだろうか?自分は自分の気持ちを大事にしているだろうか?と考えてみてもいいかも知れません。

自分の気持ちを大事にしてくれない人は、自分が自分の気持ちを大事にするようになれば、さっといなくなります。

それでももし、自分の気持ちを大事にできない時は何か自分をそうさせている原因があるのかも知れません。

それについては「都合よく使われる」「人に利用される」をやめるために必要な1つのことで取り上げていますので、よかったらそちらを参照ください。

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