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生きる意味とは?僕が思う人生の意味とある社長さんの臨死体験

「生きる意味って何だと思いますか?」
「人生にはどんな意味がありますか?」

そんな風に聞いていただいたことがあります。

生きる意味について、社会心理学者で、世界的ベストセラーとなった「愛するということ」の著者、エーリッヒ・フロムはこんな言葉を残しています。

「There is no meaning to life except the meaning man gives his life」(エーリッヒ・フロム)

自分自身で意味を与えないかぎり、人生には意味がない。

生きる意味、もしくは人生の意味というのは、そこにあるものというよりも、自分自身で与えてゆくものなのかも知れません。

生きる意味、もしくは人生の意味というのは、もしかしたら最初からないのかも知れない。だけど、僕はそれを探そうとすることには意味があるように思っています。

今回はそんな生きる意味、人生の意味について考えてみたいと思います。

目次

心身の調子が悪い時に「生きる意味」を考えたくなったら

生きる意味について見てゆく前に1つ、注意したいことがあります。

それは何かというと、人は心身の調子が悪い時に「生きる意味」を考えたくなってしまうことが多い・・ということです。

水島広子先生という精神科医の先生がいらっしゃいますが、水島先生はうつ病などの患者さんはよく、生きる意味について書かれた本を読まれることがあるとご自身の著書の中で語っています。

ただ、病気が治ると、もしくは気持ちが上向くと、そういう本は読まなくなり、普段の暮らしに戻ってゆかれるそうです。

だから、その場合は「生きる意味を考えることより、まず、自分のケアをすることが大切です」と先生はおっしゃっています。

同じように体調が良くない時や、病気が長引いてしまっている時なども、「生きる意味」について考えたくなる場合があります。

その場合も、体調が回復することで、「生きる意味」が気にならなくなることが多いです。

ですので、もし、心身の調子が悪く、生きる意味について考えたくなった時は、生きる意味について考えることも大事なことだとは思うのですが、まずは心身のケアを優先するようにしてみてもいいかも知れません。

追い詰められた状態で思い浮かぶことと、そうではない状態で思い浮かぶことは全く違ってくることがあります。

人はその時の自分の心の状態に見合ったものを探そうとする傾向があるので、マイナスな状態ではどうしてもマイナスなことが見えたり、マイナスなことが思い浮かんでしまいます。

調子の悪い時に思うことというのは、本来の自分では思わないようなことである可能性もありますので、場合によってはそういった状態で(本来の自分ではない状態で)生きる意味についてあまり深く考え過ぎない方がいいかも知れません。

僕が思う「生きる意味」とある社長さんの臨死体験

輪廻転生(りんねてんしょう)という言葉があります。

輪廻転生とは、人は何度も生まれ変わるという意味ですが、輪廻転生が本当かどうかは科学的には証明できないかも知れません。

ただ、僕は色々な意味で、人は生まれ変わると考えるとつじつまが合うように思っています。

もっとも、輪廻転生があるということを誰かに説得したいわけではなく、輪廻転生を証明したいわけでもないのですが、ただ、自分の中ではそう考えるとつじつまが合うと、そう思っています。

ここからは少し夢物語だと思っていただきたいのですが・・

何故、人は生まれ変わるか、何故、生きて苦しい思いをしたり、反対に幸せを感じたり、喜びを感じたり、感動を味わったり・・・そういうことをするのかと考えていった時、それは自分という存在を磨くため・・・なのかな、と。

そして、少し具体的な話になりますが、前世には前世の課題があり、現世には現世の課題があって、それをクリアしてゆくことで自分の存在、もしくは魂と表現されることもありますが、そういったものが磨かれてゆきます。

課題というと、困難や試練が思い浮かびますが、それだけではなくて、「この人生をどれだけ楽しめるか?」という課題もあるようです。

こんな話があります。

これは、ある会社の社長さんが実際に経験した臨死体験なのですが、その社長さんはある日突然、心臓マヒで亡くなりました。

亡くなった後、その社長さんは林の中を歩いていたのですが、少しすると綺麗なお花畑に出たそうです。

そのお花畑の向こうには川が流れています。いわゆる、三途の川です。

お花畑に来た時、どこからともなく声が聞こえてきました。

その声はこう言ったのだそうです。

「川のほとりまで行ったら、あなたの人生について聞く。だから、それまでに自分の人生がどんな人生だったかをまとめておくように。」

・・と。

この社長さんは、他人よりも何倍、何十倍と努力して、頑張ってきた人でした。また、会社も大きくしてきたし、多くのことを成し遂げてきた人でした。

だから、どんな人生だったかをまとめておくようにと言われた時、胸を張って、自信を持って努力してきた、頑張ってきたと言えると思ったそうです。

そんなことを考えているうちに社長さんは、川のほとりにやってきました。

すると、またあの声が聞こえてきて、「それではあなたの人生について聞く・・」と言ってきたそうです。

社長は、「はい。」と答え、内心で「何でも聞いてください。私は一生懸命努力してきたし、頑張ってきた。成績も残してきたし、恥じるべきことはないんだから」と考えていました。

次の瞬間、

「では聞く。あなたはこの人生をどれだけ楽しんできたか?」

社長さんは絶句しました。

自分に厳しく、努力し続けて、頑張り続けてきたけれど、「人生を楽しもう」なんて考えたこともなかったからです。

何も答えられない社長さんを見て、その声はこう言いました。

「あなたは人生について勘違いをしていたようだ。もう一度、やり直してきなさい」

「えっ」と思った瞬間、社長さんは目を覚ましました。心臓が止まって完全に亡くなっていたのに、生き返ったのです。

それ以降、社長さんは人生を楽しむことを大事にするようになり、いつもニコニコして、人に喜ばれる人になったそうです。

(参考:「人生を楽しむための30の法則」(講談社) 小林正観著)

 * * *

もし、自分に生きる意味、もしくはこの人生に意味や目的のようなものがあるとすれば、そこには、自分にやってくる困難を乗り越えたり、または、この人生を楽しもうとすることで「自分という存在を磨いてゆく」ということが、何か深く関係しているのではないかなと、僕はそんな風に思っています。

そして、そう思った時、苦しい思いをするのも決して悪いことばかりじゃないと思えてきて、色々なことも起こるけど、それはもしかしたら必然であって、自分には必要なものなのではないかと思えてきたりします。

そして、そう思えた時、その何かを乗り越える力が湧いて来たりする。

だから、そういう風に思っているのかも知れません。自分のために、自分が楽しく生きていくために。

もし生まれ変わりがあるとして、それが自分という存在を磨いてゆくためにあるとしたら・・この人生で逃げようとしても次の人生でもきっと同じことがやってくる。

おかしな話ですが、僕はそんなことも思ったりしてます。

勿論、何でもかんでも立ち向かっていった方がいいわけではなくて、サッとかわすことも人生では必要なことだと思うんです。

ただ、思うように避けられない、運命のようなものも中にはあって、それはきっと自分を磨くために自分に与えられた課題だったのかも知れないなと、そう思ったりします。

また、先ほどご紹介した社長さんは三途の川のほとりで「あなたは人生をどれだけ楽しんできたか?」と聞かれたわけですが、人生の課題には「楽しむ」ということも含まれているのかも知れません。

楽しむといっても、大人になるとそれが思うようにできなくなってしまうこともあります。

生きてゆくことそのものだって大変だし、色々な困難や苦難がやってきて、どうしてもそちらに意識が向いてしまいます。

だけど、その中で楽しもうとすることが大切で、そして、そうしようとする中で自分という存在が磨かれてゆくのかなと。そう思うのです。

人の間で生きる上での「生きる意味」

人の間と書いて、人間と読みますが、人の間で生きる上での生きる意味というものもあるかも知れません。

それは何かというと、「人の役に立つこと」なのかなと、僕はそう思っています。

何らかの形で「人の役に立つ」ということが、僕が人の間で生きる上での生きる意味ではないかな、と。

「人の役に立つこと」はまた、人の1つの使命なのかなとも思います。

自分のことだけを考えていった時に立ち止まってしまうことがあります。そして何故か、今やっていることや、生きることそのものが楽しくなくなったりすることがあります。

そんな時に思い出すのがこの人の間で自分が生きる意味なのですが、「人の役に立つ」ということを考えた時、自分が目指すべきものが見えてきたり、自分がやるべきことが見えてきたりします。

「人の役に立つ」ということはまた、嬉しいことでもあったりします。

人の役に立った時は、喜んでもらえます。人には喜ばれると嬉しいという本能のようなものが備わっているようですが、人の役に立とうとすると喜ばれて、自分も嬉しくなる。

すると、私もいい。あなたもいい。みんながいい。という状態になって、物事がスムーズに回りだすことも多い。

人の役に立つなんて言うと、何か大きなことを大勢の人に対してしなければならないような、そんなイメージを持つ方もいらっしゃるかも知れませんが、ただ、人の役に立つといっても、それは小さなことでもいいし、それは人数ではなくて度合いなんだと思うんです。

小さなこと、例えば、「笑顔で人と接する」でもいいと思うんですね。

笑顔で接してもらうと、明るい気持ちになれたりしますが、笑顔で人と接しようとする人は、人に喜ばれる人で、それも人の役に立つということになるかも知れません。

人数ではなくて、度合いということですが、マザーテレサはこんな言葉を残しています。

I am not sure exactly what heaven will be like, but I know that when we die and it comes time for God to judge us, he will not ask, "How many good things have you done in your life?" rather he will ask, "How much love did you put into what you did?"(マザーテレサ)

「私は天国(あの世)がどんなところかよくわかりません。ただ、私達があの世へ行って、(私達が)どう生きてきたかを神様に判断していただく時がやってきた時、神様はきっと「どれだけ良いことをやってきたか?」とは聞かないと思います。神様はきっと「やってきたことにどれだけの愛を込めてきたか?」と聞いてくるはずです。」

マザーはまた、「どれだけ人に与えたかは重要じゃない、その与えようとしたものにどれだけの思いや気持ちを込めたかが大切です」とおっしゃっています。

マザー・テレサの心が温まる名言集<人生、生き方、愛の言葉>

「人の役に立つ」というのは、自分にとっては、自分が人の間で生きる意味であり、使命のようなものでもあり、そしてそれはまた、自分が生きてゆく上での道標のようなもののように感じています。

「生きる意味を探すプロセスこそが生きる意味」

「生きる意味はなんでしょうか?」

脳研究者で、東京大学薬学部の教授、池谷裕二先生は、よく学生達からそんな質問を受けることがあるそうです。

そんな時、池谷先生は決まってこう答えるといいます。

「その意味を探すプロセスこそがヒトとして生きる意味ではないでしょうか、と。生きる目的は人によってちがうはずです。いや、本当のところ、意味や目的なんて、はじめからないのかもしれません。ただ、それを一生かけて探す過程は万人に共通しているように思えます。」(出典:脳には妙なクセがある p.5 池谷裕二著)

池谷先生は、生きる意味を問うというのは人間特有の能力だと。そして、泣いても悲しんでも人として生きることが定められている運命であれば、せっかくなら、楽しくその意味を問い続けたい。

苦しいこともあるけど、それでも、心の奥底では、つねに前向きな姿勢を貫いて、笑顔で生き抜きたい・・先生はそう考えているそうです。

人生や生きることに万人に共通する意味や意義はないのかも知れません。

先ほど書かせていただいた、僕が思う生きる意味は自分自身にとっての生きる意味であって、それが全員にとっての生きる意味にはならないわけです。

それに、もしかしたら、池谷先生がおっしゃるように、生きる意味など最初からないのかも知れない。

ただ、生きる意味を探そうとすること、その意味を自ら与えようとすることには、意味があるのかも知れません。

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