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決断したことが失敗だったと後悔が止まらない時は?

何か自分で大きな決断をして、例えば、新しい活躍の場を求めて転職したり、または、新たな暮らしを求めて、今の暮らしを捨てたり、夢を追って、未知の世界に飛び込んでいったり・・

自分にとっては、人生の大きな決断だったのに、自分で下した決断だったはずなのに、後になって、それが間違いだったと、失敗だったと思って、後悔が止まらない、後悔を繰り返してしまう。

もし、そんなことが起こった時、どうしたらいいか?どんなことを考えたら、自分の気持ちは少しでも楽になれるか?ということについて今回は書いてみたいと思います。

目次

大きな決断をして、失敗したと思ったことはありますか?

「大きな決断をして、失敗したと思ったことはありますか?」

例えば、そんな風に聞かれたら、僕は「あります」と即答すると思います。

大きな決断をした後に、「あぁ、自分は間違ってたな」とか、「考えが甘かったな」と思ったことは何度もあります。

自分のこれまでを振り返ると、そんなことの繰り返しでした。

以前、迷った時、決断できない時に決断する9つの方法という記事を書かせていただきましたが、そこに書いてあるようなことを思うようになったのは、何度も失敗を繰り返してきたから(少なくとも、当時はそう思っていたから)、だから、決断するために、どんな方法があるのだろうかと、考えたのかも知れません。

ただ、「失敗だった」「間違いだった」「自分の考えが甘かった」と、決断をした後に思ったとしても、それが本当に失敗だったかどうか?それが本当に間違いだったかどうか?というのは、実はわからなくて、それは(その感じ方は)時間と共に変わることがある・・・

今はそんなことを思うようになりました。

「人間万事塞翁が馬」

「人間万事塞翁が馬」(にんげんばんじさいおうがうま)という言葉があります。

これは、「何が幸いするかはわからない。不幸に思えるようなことが幸せに変わることもあるのだから、何か不幸なことが起こったとしても、安易に自分は不幸せだと決めつけるべきではない」というたとえです。

注釈(「人間万事塞翁が馬」について):

昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。

やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってきた。

人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。

すると胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。

人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の元になるだろう」と言った。

一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだという故事に基づく。

出典:「故事ことわざ辞典」kotowaza-allguide.com/ni/saiougauma.html

先程、自分の決断が、本当に間違いだったかどうか?というのは、実はわからない。そして、それは(その感じ方は)時間と共に変わることがあると思うようになった・・・

と書かせていただきましたが、(自分に起こってきた出来事の多くは)この「人間万事塞翁が馬」の通りかも知れないなと、僕はある時からそう思うようになりました。

僕自身の話になりますが、僕は、10代の後半に夢があって、田舎を出て、アメリカに渡った経験があります。そこから10年ほど、アメリカで過ごしました。

ところが、そこで待っていたのは、まるで地獄のような挫折の日々でした。

自分の考えの甘さであったり、自分の力のなさに、自分が心底情けなくなってしまって、夢もやる気も、何もかも失ってしまって、気づいたら、5年ほど、一人の時間を過ごしていました。

5年という時間は、とても長く、孤独な時間だったけれど、どうにも動けないでいたのです。

ところが、そんな日々や、その日々の中で感じていたことであったり、考えていたことというのは、無駄ではなかったのかも知れないなと、それからどの位経ってからでしょうか、そんなことを思うようになりました。

その5年という時間は、孤独な時間ではありましたが、自分と向き合う時間でもあって、その時に自分と向き合ってきたことであったり、思ったこと、考えてきたことが、どこか深いところで、今の自分の考え方であったり、今の自分のベースになっているように思っています。

その5年の後の話ですが・・

僕はもう一度、その夢だったことに挑戦することにしました。今度は途中で諦めることをせずに、死に物狂いになっての挑戦でした。

何年そんな日々が続いたでしょうか。3年以上は経っていたと思います。

結果は・・

僕は夢を叶えることはできませんでした。

だけど、やれることはやったので、心はどこか晴れやかでした。

それからさらに何年が経ったでしょうか・・帰国した僕はその挫折の日々から学んだこと、もう一度挑戦した中で学んだことが、もしかしたら誰かの役に立つのではないかと思い、自分が学んだことを何か形にしてみようと思いつきます。

そして、それがきっかけで、僕は小さな仕事を立ち上げることになります。

自分が思い描いた形とは違うけれど、挫折したり、うまくいかなかったことがむしろ有利に働いて、それが自分の仕事になったのです。

挫折しなければ、うまくいかなくて苦しむことがなければ、この仕事はなかったのだと思うと、本当に何が幸いするかはわからないものだと、今、そう思います。

記事のテーマから少し離れてきたので、このお話はこの辺にしたいと思いますが、何が正解で何が失敗かということは、本当はわからないのかも知れません。

不幸に思えることが、幸せを運んできたり、失敗だったと思っていたことが、自分にチャンスを与えてくれたり、辛かった経験が、自分を支えてくれる何かに変わることもあると思うのです。

「人間万事塞翁が馬」

今、もし、自分に何かマイナスなことが起こった時は、そんな言葉を思い出します。

今が幸せだと、過去は今の幸せに繋がっていたのだと思えてくる

話は少し変わりますが、過去の出来事に対する感じ方というのは不思議なもので、今の自分次第で変わってくることがあるようです。

例えば、今、不幸だと思っていたとします。

すると、過去の出来事が今の不幸に繋がっているのだと思えてきたりします。あの時、あんな決断をしてしまったから、あの時の自分が甘かったから、今、こんな思いをしているのだ、と。

過去の出来事が今の自分の気持ちや心の状態を決めるということは、確かにあると思うのです。

ただ、例えば、今、自分は幸せだと思えていると、過去にあったことも、今の幸せに繋がっていたのだと思えてくることもあります。

今の自分の心の状態が過去の出来事への解釈というものを変えると言いますか。

今、幸せだと思えると、過去の辛い出来事も、今の幸せに繋がっていたのだと、そう思えてくることもあるかも知れません。

勿論、全部ではないかも知れません。

過去の全部の出来事に対して、解釈を変えることはできないかも知れませんが、解釈を変えることができるものも沢山あるかも知れません。

もし、そうだとしたら、幸せだなと思える自分になるためにできることを、小さなことからでもはじめてみることが、過去への後悔を捨てることに繋がってゆくかも、知れません。

いつかは、あれでよかったんだと、あの経験があったから、今の自分(の幸せ)があるのだと、そう思える自分を目指してゆくと言いますか。

また、これはまた機会がある時に詳しく書きたいと思いますが、後悔が止まらない時というのは、自分の心が後悔することの中から何かを学ぼうとしている時なのだと思います。

後悔が消えない。後悔しても仕方がないと思うのに頭から離れない時は?

だから、後悔が止まらない時は、無理に後悔を止める必要はないと思うんですね。

もっとも、後悔というものは辛いことだけれど、だけど、無理に止めようとするのは、もっと辛かったりしますし、無理に止めようと思うほど、後悔がやめられなくなっていったり、します。

だから、無理に後悔を止めなくてもいい。

だけど、変な言い方かも知れませんが、十分に後悔した後に、その自分が間違いだったと思った過去(の解釈)を変えるために、少しづつでも、小さなことからでも、幸せだと思える自分になるために出来ることをはじめてみてもいいのかも知れません。

全てじゃないかも知れないけれど・・色々なことが、思わぬ形で、自分の幸せに繋がっている・・そんなことがあるんじゃないかなと、少なくとも僕はそんな風に思っています。

最後はハッピーエンドを目指すと言いますか、「人間万事塞翁が馬」ですから、後悔はいつか、思いも寄らない形で喜びに変わってゆくかも知れませんから。