ホーム > 自分の磨き方 >

遠慮してしまう、自分を犠牲にする癖を直すために必要な1つのモノ

人間関係では、つい遠慮してしまうことが多い、自分を犠牲にすることが多い。

そんな人もいるかも知れません。

遠慮したり、自分を犠牲にして、自分を抑え込んでしまって、その結果、人間関係が嫌になってしまったり。

そんな人は、本当はもっと遠慮なんてしないで、自分を犠牲になんてしないで、もっと自由に人と付き合っていきたいと、そう思うこともあるかも知れません。

実は僕(筆者)自身、以前はそんなところがあって、色々なことに遠慮していました。

僕は、小学校から高校までバスケットボールをやっていたのですが、いきいきしているのは、一人でもできる練習の時だけ。

友達(チームメイト)が加わる試合形式の練習や試合になると、自分を出せず、友達にパスばかり出していました。

大人になってからも、人間関係ではつい自分を抑えて、相手の話を一方的に聞く側に回ってしまったりして、自分を出さないようにすることでその関係を保とうとしていたこともありました。

それはある意味、自分なりの処世術のようなもので、それがその当時の自分が人間関係の中で生きてゆくための術だったのかも知れません。自分を抑えるということが。

ただ、自分を抑え続けていると、色々なモノが自分の中にたまっていって、いつかは、なんでこんなに我慢しなくちゃいけないんだとか、何故自分はこんなに自分を犠牲にしているのに、相手は同じようにやってくれないんだとか・・そんな風に思ってしまって、人間関係が嫌になってしまって。

それでそんな自分を変えてしまいたいと、そう思うようになりました。

今、人並みに遠慮することもあるけれど、遠慮しすぎるということはなくなりました。

また、自分を犠牲にするということはしなくなりました。

もっとも、自分がそうしたいと思ったことであれば、それが他人から見れば自己犠牲に思うようなことでもしますが、それは自分の中ではしたくてしていることであって、自己犠牲とは全く違うものです。

今日は、僕自身が自分を変えるためにしてきたことや、遠慮してしまう、自分を犠牲にする癖の原因となっているものについて、ご紹介したいと思います。

目次

遠慮してしまう、自分を犠牲にしてしまう根本的な原因

遠慮してしまう癖、自分を犠牲にする癖といっても、そこにはその人によって色々な原因があると思いますが、その根本的な原因となっていることの1つに、「自分自身に対する無価値感」があります。

僕の場合は、まさにこの自分に対する無価値感が遠慮してしまう癖、自分を犠牲にしても相手を優先しようとする癖の大きな原因になっていたようです。

「自分に対する無価値感」とは、自分には価値がないと感じている状態、自己価値を見い出せていない状態のことを言います。

無価値感があると、「私には○○してもらう価値がない」という風に無意識のうちに考えてしまって、つい遠慮したくなったりします

例えば、冒頭の僕のバスケットボールの話ですが、遠慮してパスばかり出していたのは、自分(自分のプレーにではなく、自分そのもの)に価値を感じていなかったから。

だから、目立つのは良くないという思いがどこかにあり、目立つことを避けるようになっていきました。

ただ、そうやって自分を抑え続けてゆくということは、本当は自分の中にあった自分らしくいたいという思いを抑え続けるわけで、その思いは自分の中にたまってゆきます。

ある時、それが爆発するように、とにかく目立つことをしたくなった時期があるんです。

ただ、それも遠慮していた自分と同じ理由、無価値感がそうさせていたのかも知れません。目立つことをすることで、人に認めてもらって、人に認めてもらうことで、自分の無価値感を何とか振り払おうとしていたのです。

ただ、その方法ではうまくいかず、結局、また元通りの自分に戻ってゆきました。

人にどう思われるか・・が、何故こんなに気になる?

先ほども少し書かせていただきましたが、自分自身に無価値感を感じていると、人に認めてもらいたいという思いが必要以上に強くなったり、人目や人のことそのものが気になってしまうようになることがあります。

人からのマイナスな評価をすごく恐れたり、人にどう思われるかということが過度に気になったり。

これは何故かというと、自分は自分に対して価値を感じることができていないわけです。自分には価値がないと思っているわけで。

ただ、自分に対する無価値感というのは、とても苦しいもので、自分に価値を感じていないのですから、そのままだと自分が嫌になったり、自分に全く自信が持てなかったり、そのままの自分で誰かと向き合うことができなくなったり・・

色々な弊害が出てくることがあります。

だから、そこから抜け出すために、自分の中にある無価値感を何とか振り払うために、人に認めてもいたいと強く思うようになったりします。

人に「いいね」と言ってもらうことで、自分の価値を感じて、無価値感を少し捨てることができるためです。

反対に人にいいねと言ってもらえなかったり、人に雑に扱われたりすると、すでに自分の中にある無価値感がさらに強くなって、自分がさらにみじめに思えてしまいます。

だから、自分に対して無価値感があると、人に認めてもらいたいという思いが必要以上に強くなったり、「人にどう思われるか?」ということが過度に気になったり、人からのマイナスな評価を恐れるようになったりすることがあります。

この場合、その根本的な原因となっているものは、自分自身に対する無価値感なので、そういった思いを手放すためには、何らかの方法で自己価値を感じるようになる必要があるのだと思います。

無価値感を捨てて、自己価値感を手にする方法

ではどうやったら、自分の中にある無価値感を手放して、自己価値を感じることができるでしょうか。

ところで、自己価値というのは、子供の頃、育った環境の中で育まれてゆくもののようです。

例えば、親に褒められて(認められて)育った子供は、自分に対して肯定的な思い(自己肯定感)を持っていて、それはイコール、自分の価値を自分で認められている状態です。

ところが、例えば、親に褒められることもなく、親が過干渉だったり、過保護だった場合は(どちらも子供に対する否定になります)、自己価値を見い出すことができず、大人になってからも、自分に対する無価値感を引きずってしまうこともあります。

じゃあ、もう自己価値を感じることはできないのかといったらそうではなくて、先ほどの親に褒められて(認められて)自己肯定感や自己価値感を手に入れた人のように、大人になってからでも、自分を認めてもらうことで自己価値感を手に入れることはできます。

自分を認めることで自己価値感を手に入れるということですが、やり方は2つあります。

最初のやり方は人に認めてもらう方法です。人に認めてもらっても自己価値感は高まります。

だから、ずっと無価値感を抱えて生きてきた人が、例えば、結婚して自分のことをどこまでも認めてくれるパートナーと出会って、それまでになかった自己価値感を手にする・・ということも多々あります。

2つ目の方法は自分自身で自分を認めることです。

最初の人に認めてもらうやり方も、2つ目の自分自身で自分を認める方法も自己価値感を手に入れるには、とても効果があります。

ただ、僕は最終的には自分自身で自分を認めることができないと、本当の意味での揺るぎない自己価値感は手に入らないと思っています。

冒頭で書かせていただいた、自分が自分を変えるためにしてきたことは、この2つ目の自分で自分を認める・・ということでした。

ただ、自分で自分を認めるということはそれまでやったことがなかったので、最初はとても戸惑いました。

どうやって自分を認めてゆけばいいか、最初はわからなかったのですが、ただ、小さなことからはじめようと思って、1日の終わりに今日の自分のよかったところを3つ挙げるということを実践することにしました。

今日の自分のよかったところといっても、大きな何かではありません。

とても小さなこと、例えば、ゴミを拾ったとか、そんなことです。

だけど、そうやって、小さなことだけど、自分でも「まぁいいかな」と思えることを3つ挙げるということを毎日続けてゆきました。

そんなことを続けていると、日常の暮らしの中でも、自分でもいいかなと思える自分の何か・・に気づけるようになったりします。

「考えてみれば、これも自分でもいいと思えるかも知れないな」

・・というこれまで見つからなかった自分のよいところが見つかったりするのです。

それは人様に言えるような大きなことではないけれど、不思議と、小さなことでもそうやって自分を認めるということをしていると、自分に対する穏やかな肯定感のようなものを感じられるようになっていったりします。

それが少しづつ、自己価値感や、または自己重要感につながってゆきます。

この自己価値や自己重要感については下記の記事にて詳しくご紹介していますので、詳しくはそちらをご覧いただければ幸いです。

遠慮してしまう、自分を犠牲にする癖を手放す

先ほど、自分に対して無価値感があると、つい遠慮してしまったり、自分を犠牲にしたくなることがあると書かせていただきました。

自分で自分を認めてゆくことで自己価値を少しづつ感じられるようになると、不思議と、この、つい遠慮してしまう癖や自分を犠牲にする癖も徐々に手放せるようになったりします。

遠慮してしまう理由がもし、自分には価値がないからという思いから来ているのであれば、無価値感を捨てることで、自分に素直にいられるようになります。

自分を犠牲にしてしまう理由がもし、自分には価値がないからという思いから来ているのであれば、自己価値を手にすることで、自分や誰かに嘘をつかなくて済むようになります。

ところで、遠慮しすぎたりしない、自分を犠牲にしないということは、自分勝手に振る舞うということではなくて、自分の気持ちを大切にするということだと思うんです。

面白いことに、自分の気持ちを大切にしようとしていると、同時に人の気持ちも大切にしようと思えてきます。

人は自分に対してしていることを他人にもしようとするからです。

だから、自分を大切にするということが、人を大切にするということにいつかはつながってゆくように思います。

遠慮してしまう癖、自分を犠牲にする癖を直すためには何をしたらいいか?ということについて書いてきて、最後にこんなことを言うのも変ですが、時には遠慮することも必要だし、自分を全く犠牲にしないで生きるなんてこともできないと思うんです。

時には遠慮することだって大切だし、時には自分よりも誰かを優先することだって大切なことだと思います。

ただ、もし、無価値感が遠慮してしまう癖や自分を犠牲にする癖につながっている場合は、自己価値感を手に入れることで、遠慮することや自分よりも誰かを優先することが苦ではなくなったりすることもあります。

自己価値感というのは、そういう意味で、自分の心に何か大きな余裕のようなものを与えてくれるのかも知れません。